nihombashi-hamacho’s blog

わが町、日本橋浜町を紹介して行きます。

明治座

日本橋浜町のランドマークです。

 

「銀座歌舞伎座」「新橋演舞場」「お堀端帝劇」などとともに、明治時代から東京を代表する劇場として親しまれてきました。浜町公園の横に立つ浜町センタービルというオフィスビルの低層階に入っていますが、明治座の一角は独特の意匠が施されており、外観からどこが劇場かが直ぐにわかります。

 

劇場の外には現在演じられている題目の垂れ幕が垂らされ、出演中の俳優の名前が書かれたのぼりが立てられています。有名人の名前が連なり、一度観てみたいと思いつつ、なかなか機会がありません。料金がそれなりに高いこともハードルです。

 

1873年(明治6年) に喜昇座(きしょうざ)として創建された明治座は、初期には焼失と再建を繰り返しながら成長し、その度に名称も久松座(ひさまつざ)、千歳座(ちとせざ)と変遷しました。1893年(明治26年)に初代市川左團次が千歳座を買収して座元となり、これを明治座と改称するに及んでやっとその名が落ち着き、今日に至っています。

 

明治座は戦前から戦後昭和の一時期までは、歌舞伎や新派の殿堂として知られました。また、その後は時代劇公演や、時代劇俳優や演歌歌手、ものまね芸人など年配に好まれる芸能人が座長となった歌謡ショー形態の公演(座長公演)が中心となりました。2000年代に入るとテレビ局との提携による時代劇や観劇者の世代を引き下げたミュージカル形態の公演もおこなわれるようになりました。舞台設備には、宙乗り装置も常備されています。各階のロビーには所蔵絵画が多数展示されており、美術館のような雰囲気を醸し出しているようです。

 

公演方式は他の劇場とは異なり、30分程度の幕間(休憩時間)を2回挟みます。劇場内に大人数に対応した食堂や喫茶コーナーがあり、休憩時間を利用して客を誘導するシステムとなっています(食堂は一部事前予約制)。飲食店のほかにもロビーには売店が多数あり、公演にちなんだ土産品や衣料品雑貨などを販売しています。

 

建物3階(劇場1階席)受付にてオペラグラスの貸出(有料)を行っており、貸出料は一律500円。保証料は一般的なオペラグラスは2000円、高機能なカブキグラスでは5000円。

 

観客には比較的高齢者が多いので、上演が終わると都営地下鉄新宿線浜町駅人形町の甘酒横丁に裕福層で元気なお年寄りがあふれ、ほほえましい光景を醸し出してくれる。また、近隣商店街への経済的効果をもたらしているものと思われます。

 

 

東京都中央区

きょうは、日本橋浜町が属する東京都中央区の現状について書きたいと思います。

 

東京都中央区は、東京23区のほぼ中央に位置します。区内には、日本橋八重洲・築地・月島・晴海・銀座等といった街があります。

面積は10.094km2で、東京23特別区の中では台東区に次いで2番目に小さい区ということになります。

人口は千代田区に次いで少なく13.0万人、75,472世帯(2013年6月1日現在)ですが、日本橋や銀座などの大商業地域(オフィス街)を複数抱えるため、昼間人口は60.6万人に膨れ上がります。また、商業地域としての特徴が強く、建物はビル(オフィスビル)が目立ち、住宅としてはマンションや団地などの集合住宅が大半を占め、低層住宅の一戸建てやアパートなどはかなり少なくなっています。

道路は碁盤目状に比較的よく整備されています。

 

区域の西側は江戸時代には日本橋や京橋など下町として栄えた地域であり、東側は同時代からの埋め立てによって出来た地域です。現在、中央区は行政上、日本橋、京橋(銀座・築地などを含む)及び月島の3地域に区分されています。区内はほぼ平坦で、標高は1-3メートル。

中央区第二次世界大戦終戦直後まで運河と水運の町でした。区内には京橋川・桜川・築地川・汐留川・三十間堀川・鉄砲洲川・箱崎川浜町川竜閑川などが縦横無尽に張り巡らされていました。これらの河川は戦後の残土処理や高速道路建設のため埋め立てられ(いわゆる暗渠化)、現在では往時の姿を殆ど残していませんが、町や区界はこの河川に沿っていることが多くなっています。

区の北端との区界は竜閑川跡、西端は外堀跡および日本橋川、南端は汐留川です。区の東端には江東区との境に隅田川が流れます。隅田川は下流で二股に分かれ(西側が本流、東側は「派流晴海運河」)、その中州には佃や月島、勝どき、豊海町、晴海があります。区の南東部は東京湾に面しています。

 

区の財政、平成27(2015)年度は、歳入が873億8,900万円(前年度比 6.2%増)、歳出は830 億2,600万円(前年度比 4.7%増)となっています。過去の財政規模と比較すると、歳入・歳出とも2年連続の増加となり、平成23(2011)年度と比較すると、歳入では約168 億円、歳出では約146億円の増となっています。 また、歳入総額から歳出総額を差し引いた収支(形式収支) 43億6,300万円から、翌年度へ繰り越すべき財源(繰越事業費の財源) 26億200万円を差し引いた実質的な収支(実質収支)は、17億6,100万円となっています。財政的に比較的裕福であり、行政サービスが充実していると言うことができます。

 

 

日本橋浜町の歴史

東京都中央区日本橋浜町

 

ランドマークとしては明治座のある町と言ったらわかり易いと思います。浜町公園、浜町緑道には緑が多く、都会の喧騒を忘れさせてくれます。

 

日本橋浜町界隈は、3度その姿を大きく変えています。
江戸時代の浜町はサムライの町で、広い敷地をもつ大名屋敷や蔵屋敷などが立ち並んでいました。現在の日本橋久松町の一部には商家もありましたが、刀や脇差を売る店が多かったそうです。すぐ近くの人形町が職人たちの暮らす賑やかな下町だったのとは対照的に、庶民には縁遠い閑静なたたずまいの町だったと思われます。浜町にあった笠間藩の屋敷のなかには、幕府の大判小判を蓄えた蔵があったと言われていますが、多分、最高機密だったのでしょう、屋敷のどこに蔵があったか、正確な場所はいまもわからずじまいです。


徳川幕府の終焉とともに、浜町界隈は一変しました。1871年に、約260年つづいた幕藩体制が廃止され、大名屋敷の土地は民間に払い下げられました。その跡地に建てられたのが、格式ある料亭や飲食店。裕福な商人が芸者さんとお座敷遊びをする、華やかな料亭文化がこの地で開くことになったのです。

 

1972年に埋め立てられるまで、日本橋浜町日本橋人形町との間には浜町川という堀割があり、隅田川遊覧の起点として賑わったと言います。1930年代の流行り歌に「浮いた 浮いたの 浜町河岸に」と唄われたように、粋で華やかな町として全国的にも有名で、最盛期には250人以上の芸者さんがおり、100軒近い料亭があったそうです。ちなみに、当時芳町といわれたこの町の芸者さんは、「粋でおきゃんで芸がたつ」ともてはやされ、著名人や旦那衆といわれた富裕な商店主のご贔屓も多かったとか。日本の女優第一号になった貞奴も、芳町出身の芸者でした。
1977年の町名改正で芳町の名前は消え、旦那衆も芸者さんも料亭も次第に姿を消していきました。現在、料亭で残っているのは創業100年を迎えた老舗の「濱田屋」のみですが、芸者さんは10数人残っているそうです。

 

浜町界隈は、1923年の関東大震災で大きな被害を受けましたが、震災後、清洲橋から浅草橋に至る幅33mの大通り・清洲橋通りが建設され、下町自慢の通りとなりました。隅田川に沿った広々とした浜町公園は、中央区で一番大きな公園。熊本の大名細川家の屋敷跡を、1929年に整備・開放したもので、散策に運動に大江戸まつりなどイベントの会場にと、地域の人びとに親しまれています。